「グーテンバーグ!」感想

観劇に行ったら感想書くのが常になっていたのにこの演目に限って1ヶ月以上も放置してしまった…!このまま無視しちゃおうかなとも思ったけどそれもモヤモヤする。普段いい加減なのにどうでもいいことが妙に気になる性分なのでここら辺で考えをまとめることにします。

なぜ放ったらかしにしたかと言うと、いや面白かったよ!?観劇中はゲラゲラ笑ってたんだって!でも帰途に就く頃になるとアレは一体何だったんだろう…?と細かいところが引っかかってしまって正直未だに自分の中で消化しきれていません。不満というのではなく歯に物が挟まった時のような気になる感じ…面白いかつまらないかで言ったらもちろん面白かった!と自信を持って言えるんだけど「しっくり来ない」感じと言うか…

うだうだ言っても始まらないので説明行きます。舞台の上に何の変哲もない長テーブルが2つ置かれ、その上に役名が書かれた帽子がずらっと20個以上、小さなぬいぐるみなどの小道具があるのみ。あとはこれまた普通の段ボール箱2つ。もちろん舞台転換はなし。役者2人とキーボード奏者がいるだけの簡素な舞台で2人が帽子を取っ替え引っ替えしながらありとあらゆる役を演じるのです!何でもこの2人はブロードウェイ進出を目指す脚本家と作曲家で、上演権を得るためプロデューサーやスポンサーの前で新作ミュージカルを実際に演じてプレゼンするというわけ。その作品が「グーテンバーグ!」なのです。グーテンバーグは14世紀にドイツに実在した活版印刷機を発明した人物。活版印刷機の発明により文字を読める人が増え、巡り巡って宗教革命や様々な学問の発展に寄与したとのこと。しかしこのグーテンバーグさん、昔の人なんで殆ど何も分かってない、分からないなら勝手に話を作っちゃおう!という訳でオリジナルストーリが展開されます。脚本家ダグと作曲家バドをそれぞれ新納慎也さんと原田優一さんが務めます。

何の装飾もない舞台なので観客は言葉で説明された背景を想像しなくてはならないのです。中世のヨーロッパってとにかく不衛生で有名ですよね。ウ○コを窓から道に捨てるわとにかく辺り一面ウ○コだらけな描写がたくさんw 実物がある訳じゃない、観客に想像させるだけだから問題ないとは言えこんなウ○コだらけの舞台観たくないわ!って思っちゃいましたw 内容はドイツのある街でワインを作っていたグーテンバーグが町の人々にも文字を覚えて欲しいと活版印刷機を発明しようとします。しかし聖職者にとっては「みんなが文字を覚えて聖書の教義を知ったら困る。俺たちのいう事をただ聞いてりゃいいんだー!」てな訳でそんなもの作って欲しくない。悪い修道士はグーテンバーグに恋する少女ヘルベチカをそそのかして印刷機を壊すことに成功。彼女はそれをひどく後悔するようになるのですが…というお話。

とにかくギャグ満載でずっと笑い放しなのですよ。カートゥーンネットワークでやるアニメに出てきそうなチンケで卑怯な悪役の修道士も、その子分の頭の弱そうな修道士見習いも、うら若き乙女のヘルベチカもアンサンブルに至るまでただ帽子を被り直すことによって演じ分ける訳です。また原田さんと新納さんがめっちゃキュートで可愛い。2人でタイトルを言いながらお決まりの決めポーズがあってその度に笑ってしまう。特に私が新納さん目当てで行ったというのもありますが、めっちゃスタイルがよくて「はえ~すげ~な~」と感心してました。

BWを目指すミュージカルという設定だけあって、音楽もしっかりしています。グランドミュージカルにありがちな壮大なメロディで結構本気度を感じるのだけど、帽子と段ボール箱といくつかの小道具だけで全てを表現するので耳と目のギャップが著しい。1幕のラストは主な登場人物が一斉に出てきてそれぞれの心境を歌い最後は全員で歌う「ミュージカルあるある」な演出なのも面白いし、2幕の始めは物語の本筋とは離れた明るく楽しいナンバーが入る、これをチャームソングと言うんだよなんて解説もありました。ミュージカルお馴染みのラインダンスもあります(2人だけでどうやって?と疑問でしょうが、2本の棒に糸をつなぎそこにずらっと帽子を吊るして表現してましたw)。とにかくまるっとミュージカルの定型を踏襲してます。

ここまで読んで面白そうな舞台でしょ?では何がお前は不満なんじゃという疑問が湧いて来る頃だと思うのでこれから説明します。これはオフブロードウェイ作品です。だからこんなユニークな形式なんですね。2人の役者が脚本家と作曲家、そして劇中劇の中で20以上もの役を演じる、更には時折フリートーク場面が挿入され原田優一と新納慎也としても振る舞う。そういう構造なのです。中の人キャラの時はミュージカル俳優にまつわる内輪ネタ(大御所ミュー俳優の物真似やエリザベートのパロディ)や日常話だったりします。私の時は、夜中の1時にマックの袋を抱えた原田さんと新納さんが遭遇して新納さんが「お前それでいいの?」と問いかけた話、その後原田さんが15kg(だったかな?ちょっと曖昧)の減量に成功した話、新納さんが大学時代記憶をなくす程酔っ払って朝起きたら肛門がすごく痛かったので新しい扉を開けちゃったかなと思ったら三角コーンに何度も突き刺して遊んでただけという話だったかな。ここはまるっきり原田さんと新納さんそのものなんですよ。

しかしこれは翻訳劇です。アメリカ人の作家が書いたもので真面目な主題もあるのです。劇中でも「我々は真面目なテーマを楽しいエンターテイメントに乗せて表現する」と説明されていましたが、この作品の大きなテーマは「世界にはまだ文字が読めない弱い立場の人がたくさんいる」ということ。大多数の人は自分の食い扶持のことしか考えてないのに、世界のどこかにいる恵まれない人達に思いを馳せることができる人間なんて相当インテリで意識が高いですよ。私の脳内では若いのに顎髭を生やした青年(もちろん白人)がろくろを回しながら「OK。僕は別にユニセフに募金しろとか海外ボランティアに参加しろとかそんな大層なことを言ってるんじゃない。ただ、君が帰りに行きつけのカフェに寄ってメニューを見てクラブサンドとカプチーノを注文しようと思った時、文字が読めることの有難みを少しでも思い出して欲しいだけなんだ」と説明してるのが想起されました。わーっしゃらくせーっ!いやいや大事なことですよ、世界の貧困や格差について想いを馳せることは(ゴホン)。で、この青年と原田さん新納さんのキャラがどうしても合わない。裕福な家庭に育ちハーバード辺りを卒業したであろうエリート青年は深夜1時にマックで大量の買い物をしたり酔っ払って三角コーンに尻を突き刺したりしないはずです。作者の顔がとうしてもチラつく翻訳劇を文化も価値観も違う別の役者が演じることによって生じるズレのようなものがどうしても看過できないのです。ぶっちゃけ「どこまでが新納さん/原田さんでどこからダグ/バドなの?」ということです。

このメッセージ性はラストに向かうとぐっと強くなります。最後まで印刷機が壊れたことを知らないグーテンバーグは街の祭りで印刷機を披露します。しかし壊れてることが皆の前で判明し、嘘をついたかどで火炙りの刑に処されるのです。史実とはまるっきり違うし、第一印刷機が壊れたままグーテンバーグが死んだら発明されてないってことやんと大いなる疑問を抱いたのですがそれは置いといて、この辺から妙に説教くさくなり世界には文字の読めない人云々という説明があり、僕たちもあなたたちもそんな世界を変えていこうみたいな流れになって観客にも歌わせてみんなで合唱です。同調圧力嫌い偏屈マンの私としてはここがダメだった。最後まで笑わせろよ!と思ってしまった。自分が半径1メートルのことしか考えられない自己中な人間であることを暗に責められてる気がしてモヤモヤしてしまったのです。自分の中にある反知性主義めいた反骨心が刺激されたのかもしれません。2人が役になりきっていれば「これは元の作者の主張であって原田さんも新納さんも代弁しているだけなんだな」と割り切れるのですが、さっき言ったようにその辺の境目が曖昧な構造なので余計にモヤモヤするという次第なのです。

そんなわけで冒頭に「不満ってわけじゃない」と書いておきながら散々不満をぶつけてしまった今回の感想記事、面白かったのは確かなだけにこの感情の置き所がいまいち分からないままでいます。でもよかったーだけでで済むより色々考えさせられる作品の方が実は刺さっているのかもしれませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA