先日大ヒット上映中の映画「美女と野獣」を見に行きました。まず前提として言っておくと、私はジャン・コクトーの仏映画に興味を持ち、ディズニー版を映画館で見て感動して、ビデオテープも擦り切れる程見てDVDはもちろんBDも家にプレーヤーがない癖にいつかのために持っているという筋金入りのファンです。だから今回の実写版も楽しみにしてました。
それなので、評価がどうしてもアニメ版に傾きがちというバイアスが生じることを念頭に入れて読んでください。
結果はタイトルからも分かる通り期待と違ったんですけどね。かなりwktkしてたんで見終わった直後はチキショーな気分もなかったと言えば嘘になるんですが、何が自分の中でダメだったのかせっかくなんで備忘録代わりに整理しようと思います。ネタバレの嵐なんで注意してね!
元になったアニメ版は90分弱の作品。対して実写版は120分超に拡大してます。基本はアニメ版に忠実だけど新しいエピソードと歌が追加されている分少し長くなっています。新しいエピソードとは野獣とベルの過去について。野獣は元々優しい性質だったのが早くに母を亡くし厳格な父親に育てられて歪んでしまったこと、ベルは母が疫病で亡くなり父は娘を守るためパリを離れたことが語られます。でもそれでおしまい。それを知ったところでお互いを見る目が変わったとか彼等の関係性に変化が生じた等の話の広がりはナシ。強いて言えば野獣がベルの父親を見直したくらい。でもそれ位のことそこまでしなくても簡単に分かるでしょw制作陣は2人の過去を描くことで人物の掘り下げをしたかったんだろうけど、掘り下げになってないと言うか。「2人の過去については分かりましたけどそれで何か変わりました?」と思ってしまった。
しかも野獣が魔女から貰った「念じるだけでどこへでも行ける本」を使ってベル一家が暮らしていたパリの部屋に行くのだが、何のために魔女はそんなものを野獣に託したのだろう?城に引きこもっていても辛いからどこか遊びに行っていいよ☆みたいな?むしろハリポタ世界にありそうなアイテム…そっかベルはハーマイオニーでもあるから問題ないのか(投げやり)!また母親が疫病で亡くなったというのが医者が付けているマスク(鳥のくちばしのように先が尖っているやつ)が部屋に放置されていたので判明したのだが、普通感染防止のために付けているマスクを患者のいた部屋に置き放しにする?現場の状況を見ただけでなぜ「父は赤ん坊の娘を守るため泣く泣く病床の母を置いてきた」までコナン君みたいに察してしまうの?とか色んなことが気になって仕方なかった。つーかそもそも「どこへでも行ける本」を目の前にしたら変えられない過去(既に亡くなった母親)よりも変えられる現在(父親の境遇)を考えるのが普通だと思うけどな!
それでもこれが後で重要な伏線となるとかならまだいいんです。一応ガストンの企みでベルと父親が病院の護送車に閉じ込められた時、ベルが母の形見の薔薇の飾りを持ち出していてそれを鍵を開けるために活用したというのがあります。でもさあ、ドレス姿のまま城から飛んできたベルがなぜそれを持ってるの?アニメ版みたいに一度着替えてから出てきたと言うのなら分かるけど。そこはアニメ版通りでよかったじゃん!
でもね、文句ばっかり言っても生産的でないので対案を出しますよ。所詮私が考える対案なんてショボいですが。せっかく野獣とベルの過去のエピソードを出したんならそれを知った後の2人の心情変化を掘り下げて欲しかったなあと思うんです。例えば、ベルの過去を知って野獣がベル親子の絆の深さに感じ入りベルをすぐに父親の元に返したくなる→でもそんなことしたら当然人間に戻れるチャンスはない→家来達も期待が膨らんでいるし彼らを裏切ることはできない→ベルを縛っている自分に嫌気が差しつつも早く目的達成しなくてはみたいな。あるいはベルの父親に対する愛情を見て我が身を振り返る→自分は父親のせいで心が歪んだと思っていたが父なりの愛情もあったのではと内省するみたいな、ね。その位の葛藤描写があれば新しく追加された2人の過去のエピソードも少しは活きたんでないかなあ。
不満は脇役サイドにもあります。今回性格が大きく改変されたのがガストン。アニメ版ではマンガぽく滑稽な面もあったけどそれを実写版でやると浮くと考えられたのか、戦争で名を上げてから刺激に飢え物足りなさを抱えているという現実寄り?の設定になっている。ベルに一途で3人娘にもサービスしないし、モーリスの訴えにも最初は耳を貸してやる。でもアニメ版のガストンはマンガぽく誇張されたアホさ加減が激しい分後半の剥き出しになった嫉妬心と残酷さが際立つんだけど、実写版だとその辺が中途半端になってしまっているように思える。どちらかと言うと「戦争の高揚感にやられて心が壊れた人間」というキャラ。ある意味哀れに思うべきなんだがアニメ版のイメージも引きずっているためそこまで同情できない。それに「強いぞガストン」の唾吐き競争も10ポイント!とか卵を5ダース食べているというアホな歌詞と微妙に乖離してしまってる。これも雑に手を加えたせいで整合性が崩れてバラバラになってる例かなと。おとぎ話がモチーフなんだから別に紋切り型の悪役で構わないと思うのだ。その他の民衆もアレですよ。アニメ版と同じく保守的で閉鎖的な村人達で、少女に文字を教えたベルに文句を言ってベルが開発した洗濯機から洗濯物を地面にぶちまけるという嫌がらせまでしている。それなのに最終的に和解して何事もなかったかのようにラストシーンで一緒に城で踊っているのだ。しかも魔法にかけられていた家来達の家族が村の中にいたんだってさ!何それ?!ベルは自分と相容れない村から逃げ出したかったんじゃないの?村人達と何を分かり合ったというのだろうか?
演出面もアニメ版と比べると…って感じ。思えばアニメ版は限られた尺の中でさりげないワンシーンの中に多くの情報を詰め込むことで最大限に心情描写をしていたんだなということに気付いた。子供向けなのに本当に緻密に計算されている。アニメ版と実写版の演出の違いについてちょっと気になった箇所が多いので箇条書きにしていいですか(これでもごく一部なんだよ!)
①アニメ版の野獣の表情について、最初は衣服も粗末で恐ろしげな雰囲気だけど一瞬垣間見せる迷いや茶目っ気ある表情で「本当はこの人悪くないんだな」というのが見る者に伝わってくる。そういった積み重ねが野獣への愛着となりラストの変身で「野獣のままでよかったのに!」現象につながるのだ(因みにこの現象はDVDのオーディオコメンタリーで監督も認めていたので公認ですw)。実写版は特に前半野獣の表情が読み取れないのが難点。お城の家来達もアニメ版では実に表情豊かだったのに実写版では余り可愛くないと言うか…実写に合わせたデザインだから仕方ないのか?そのせいで魅力が伝わらない。
②アニメ版でベルが約束を破って西の塔に行った場面について、オーディオコメンタリーでは「野獣の荒れ果てた部屋は彼の心情を表したもの」と解説されていた。ベルに激昂したのも大事な薔薇に手を掛けたからではなく荒んだ自分を見られて恥ずかしかったからだと。そーれーがー実写版ではそこまで考えられているようには見えないんです。あーこんなもんかーで終わってしまった。
③その直後のベルが城を飛び出すシーン。アニメ版では森の中で狼の群れに襲われる所を駆けつけた野獣に助けられるんです。でもここ少し説明不足なのよね。おそらく城で「ご主人様大変です!娘が逃げ出してしまいました!」「何てことだ!森には狼が沢山いるというのに!」みたいな会話があったと脳内補完してるんですが、実写版で尺延ばすんなら補足すればいいのにと思ったけどここはアニメ版のまま。
④ベルに図書室をプレゼントするシーン。読書好きなベルを喜ばせたい一心の野獣がひたすら可愛らしい屈指の名シーンなんだけど実写版ではあれもう終わっちゃった?と言うか。その代わり野獣のインテリぶりを披露してたけど。
⑤父が精神病院に連れて行かれそうになる時のベルとガストンのやりとり。鏡に写った野獣をうっとり見つめるベルの一瞬の表情でガストンは全てを悟り嫉妬の炎が燃え上がる。実写版はここが省かれてるからちょっと分かりにくくなっている。何で要のシーンを飛ばすのだ!
⑥王子に変身するシーンもアニメ版では動物から人間の体に戻る過程をゆっくり見せていたのに実写版は光で誤魔化していたよね。せっかくあれだけしつこくCG!VFX!CG!VFX!なのに。
⑦CGと言えば、どうせ今の映画だから城の中もCGなんだろうなと思っていたら案の定。そこはアニメ通りでなくて構わないから実在の城でやって欲しかった。CG多用し過ぎると却って安っぽくなるんだよね(思えばアニメ版は当時珍しかったCGを取り入れ斬新なアニメとCGの融合!と宣伝してたんだった…)。
ここまで散々腐してきましたがいいところもありますよ。それはアラン・メンケンの音楽。新しく追加された曲は名曲で何度も聴きたくなってしまう。だから尚のこと勿体無いんだよー。
これまで私が取り上げた作品を見ても分かるように別に設定に粗があっても作品全体が面白ければ「こまけえことはいいんだよ」精神で乗り切れるんですよ。でもこれは本筋のストーリーがアニメ版と比べると蛇足だったり逆に説明不足だったりするので何でもかんでも気になってしまったのです。これでほんの一部というのだからお前どんだけ不満だったんだよっていう話ですね。ただ一つ悩ましいのが吹き替え版の評判がいいということ。面白かったら見に行こうかなあと思っていたんだけど。どうしたもんでしょ。