8月は観劇の予定なかったんですが…ほら7月にエビータ3回も行っちゃったし。ミュージカル興味あるのにとても有名な作品知らないの密かにコンプレックスなんですよ。「コーラスライン」はいつか観てみたいなあと何となく思っていて、タイミングよく来日公演するから、って全然タイミングよくないよwww エビータ通った直後だし10月にはタイタニックもあるしw でも結局欲望に負けて行ってしまいました。7月に引き続きまたシアターオーブ。これだけ足を運べばさすがに渋谷ダンジョンも迷わなくなったw
とても有名な話ですが一応あらすじ。とあるミュージカルのアンサンブルのオーディションに集まった男女たち。演出家のザックから「履歴書にない自分を説明して欲しい」と質問される。家庭が不和でバレエが心の支えだった者、背が小さいため大人になっても子役で通じてしまう者、思春期の多感な思い出を語る者などなど…舞台ではプリンシパルの後ろで一糸乱れず踊る名前の付かない彼等だが、一人一人生きた証を持っており「その他大勢」の椅子を得るのに必死で食らいついていく。彼等がどんな人生を送りどれだけ踊りに賭けているかを描くミュージカル。
まるでドキュメンタリーを見ている気分になったのは、この作品が職にあぶれたダンサー達を集めてこれまでの人生を語らせるワークショップから生まれた(パンフより)ということに起因してるんだろう。なぜダンサーの職がなくなったかというと、多くのダンサーを率いて踊る従来の演出が予算の都合でできにくなったから。夢の世界を見せるミュージカルがリアリティを追求する路線に変わったことも無関係ではないんだろう。でもこの「コーラスライン」もリアリティ追求型でむしろドキュメンタリーに近いというのは何となく皮肉に思える。
中でもキャシーとポールの告白に焦点が当てられるんですね(この辺からネタバレしまくりなんで気をつけて下さいね)。キャシーは元スターで真ん中で踊ってた人。演技ができないばかりに頭打ちになって仕事が来なくなってしまった。しかしどうしても踊りたいという熱意が最後に残り一からやり直す決意をする。ザックからは「お前のは真ん中の踊りだ。今更アンサンブルには戻れない」と告げられる。ここで2人が元恋人だったことも明かされる。私は下調べもせずまっさらの状態で観たから意外だったけど超有名作品だから他のお客は既に知っているよな、そう思うと今更新鮮に驚く自分がおかしく思えたw 結局キャシーは選ばれるのだけど、ザックが彼女の心意気を買ったからなのか、まだ愛情が残っているからなのかどっちだったんだろう?
もう1人のキーマンがポール。彼は自分がゲイであるために流転の人生をおくることになる。カトリックの高校を中退してから自分の居場所を求めて二転三転の末辿り着いたのが古い言葉で言うと「ニューハーフバー」。そこでショーを披露していたら両親が来店、何と父が自分を認めてくれた…ここで彼は泣き崩れ、それまで天の声のように声だけが響いていたザックが舞台に降りて来て無言で彼の肩を抱くんですね。このキャシーとポールの場面はちょくちょく客席の照明が明るくなって観客は自分が晒されるような居心地の悪さを感じる。2人がザックから尋問を受けているような気まずさと同じ感覚を味わうという演出なのかな。
少し前にやっていたNHK FMの「ミュージカル三昧」で香寿たつきさんがこれを好きな作品に挙げていた理由が分かった。演じる側にとっては身につまされる話なのは違いない。ショウビズの世界に生きる人は登場人物の誰かと自分を重ねて観ずにはいられないのでは。特に宝塚なんて特殊な世界だからこんな話はゴロゴロしていただろう。宝塚に入るための予備校まであってそれでも入れるとは限らず、入れたとしても大成できるのはほんの一握り、実力があっても必ずしもトップになれる訳じゃない…私たちが見てるのはほんの上澄みの結晶化したものなんだなということがよく分かる。
この作品が世界中で愛されているのはダンサー達の喜びや苦しみが普遍的なものだからだろうと思うけど、ポールの話を聞くと1970年代の米国のゲイ差別がどれだけひどかったかということに思いを馳せてしまう。時々漏れ聞くあちらの事情は本当にひどくて日本の比ではないらしい。何せ法律で禁止されていた程だから。子供をカトリックの学校に入れるくらいだから保守的な家庭だったんだろうし、そんな父親にまさか認めてもらえるとは夢にも思わなかったんだろう。その辺の事情は現代と比べるとかなり変わった部分もあれば案外変わってないところもあるんじゃないかなあ…と思う。そんなアメリカの文化が分かるとポールの告白ってより重いものに聞こえるような気がするんですよね(私もよくわかってないので類推するしかないのですが)。
ダンスについては私全然詳しくないんで語っていいのかなーと迷うんですが…皆「踊りこそわが命」という迫力を感じなかった…ぶっちゃけそんなにダンスがうまくないというか。キャシーのダンスも「真ん中の踊り」なのかなあ…うーん?ただ彼等って日本人とは身体つきがまるで違うんです。だからダイナミックさで押し通せてしまう。こういう所本当にずるいと思う。要所だけ合わせれば何となくモノになって見えるのは彼等の強みで、日本人の基礎がしっかりしている美しさとは違ったタイプ。私が日本人のパフォーマンスを見慣れているせいで、好みが合わなかっただけかもしれないけど。
そういう訳だから内容は面白かったけど他のカンパニーで観たらまた感じ方が違っていたかも?と思ってしまった。ただ劇場を出てからとても美しい夕焼けが見えて富士山の姿も見られたからこれでよし!となってしまったw 我ながら単純すぎるw
マイケル・ダグラス主演の映画版をかつて見たことを思い出し、最近DVDを購入して見たのですが、雑食さんの記事を読む限りストーリーはほぼ同じですね。映画ではキャシーがオーディション最終選考の段階で突然現れてそれで選ばれるのが納得出来なかったり、話としてはあまり面白く感じなかったのですが、その辺は演出上意図的にされてるのかもしれませんね。演者のダンスの素晴らしさが不可欠の作品だと思うので、やっぱりダンスの上手い日本人キャストで観たいです。
舞台版ではキャシーは最初からオーディションにやって来た若者たちの中に交じっていて、冒頭ザックが番号でダンサー達を呼ぶのにキャシーだけ名前で呼ぶシーンがありこれが伏線となっているんです。パンフによると「What I Did For Love」は映画と舞台で使われ方が違っていて舞台では登場人物の1人が怪我で退場した後でザックが「もし明日から踊れなくなったらどうする?」と尋ね、「それでも今までの日々に悔いはない」とダンサーが答えるところで歌わるそうです。今回の舞台を見てあれだけダンスや歌をがんがん繰り出す宝塚ってすごいんだなあと思いました。なのに歌が下手とかダンスが下手とかスターオーラがないとか日頃粗探しばかりしてごめんな…という気持ちになりましたw
なんと、キャシーががちゃんとオーディションに最初からいるんですね。映画版ではキャシーが会場に着いてから実際にオーディションに加わることをザックが許可するまでに選考がどんどん進んでしまうので、結果的に最終選考で加わるキャシー、しかもそんなに上手くない、っていう不満が湧くので、そこが緩和されてて良かった。ダンサーが怪我するシーンでは「ザックが無理な事いっぱいさせるからだよ」っていうのと、あそこまで心をさらけ出してそれなのに怪我して理不尽、って悲しくなった場面ですが、舞台を観るようになってからは、ダンサーというのは怪我と背中合わせのアスリートなんだと知ったので、今は素直に受け止められるかも。雑食さんの「ごめんな・・・」という気持ちに同感です。
なるほど。細かいところが舞台版と違っているのですね。舞台版ではザックが無理させるような印象はありませんでした。選考も2段階だけですし。怪我については確かに理不尽ですが、どんなに過酷な過去を背負っていてもそんなこと関係なく怪我する時はあっさりしてしまうんだ、これが現実なのかなと思いました。ライバルが1人減ったのに誰も喜ばずみんな彼を心配しているのがまたいいんですよね。