最近なるべく散財しないようにしようと我慢していたんですが結局欲望に負けてしまいました。「マイフェアレディ」このブログで前に記事にしたこともあるくらい好きな演目だから日本ではどんな舞台になってるんだろうと興味あって。以下、ネタバレ満載&褒めてるだけではないので注意してください!!
あらすじは割愛しちゃいますね。1963年から日本でも繰り返し上演されている古い作品だけど、2013年に演出や台詞などを一から見直してリニューアルしたらしいんです。元々古い作品だからゆったり進行すると言うか、見方によっては少し冗長に感じられる場面もあります。そういう所は短縮されていたり演出を工夫しているのが私にも分かりました。オーバーチュアの出だしから違うし。映画と比べると最初の場面はちょっと端折ってるかな?歌も(特にヒギンズの歌)も短くなってるような?中でも特徴的なのは、コックニー訛り(hの発音が抜ける、eiがaiになる等)が日本人には馴染み薄いので江戸訛り(「ひ」を「し」と発音する)に置き換えたこと。英語の発音の違いは階級と密接に関係があるのでイコールにはならないけどよく考えたなあと思った。だから「Just You Wait」では原語では「エンリー・イギンズ」と言っていたところが「ヘンリー・シギンズ」になっていたり、「The Rain In Spain」は「日は東、日向にひなげし」になっていた。スペインと関係なくなったから闘牛やフラメンコの振り、最後の「オレイ!」もなかった。音楽のアレンジも変わっていたような。その他の例文(ハンプシャーやヘレフォードうんたらかんたら)も変わっていた。
これらの変更点は昔からこの作品に愛着を持っていた人には受け入れられないかもしれないけど、個人的には概ね良くなったと思う。コックニー訛りを江戸弁に置き換えたところは英語の歌詞を聴き慣れていたから違和感出るかなと恐れていたけど案外すっと受け入れられた。ただし、一つ訳詞に不満な箇所があって、それは「I Could Have Danced All Night」で「きっと誰か迎えに来る」と訳してる所があるんだけどこの「誰か」は間違いなんですよ。元々は「彼と手を取って踊った時から胸が弾む」みたいな事を言ってて、この「彼」とは直前の「 The Rain In Spain」で一緒に踊ったヒギンズなんです!つまりこの歌はヒギンズへの恋の芽生えを歌っているんだ!何であんな奴と?というのはここでは置いといて…だから今回その旨をアンケートに書いてやろうフンガーと息巻いていたのにアンケートないでやんの!アンケートない公演初めてなんだけどそんなものかなあ?
次にキャストについて。私が観たのは朝夏まなとさんと寺脇康文さんのペア。朝夏さんは製作発表の時よりもうまく歌えるようになっていて随分努力したんだろうなあというのが伺えた。すぐ裏声になるので高いキーは苦手なのかなと思ったが高音も出ていた。台詞の声と歌声が違うのが気になったけど宝塚退団後初めての舞台でここまでできたのは純粋にすごいと思う。対するヒギンズは寺脇さんだけど私にとってはヒギンズのイメージじゃないんですよ。いや、彼のことは嫌いじゃないしむしろ好きな方ですよ。現に私が相棒見ていたのは亀ちゃん時代だし、土ワイでやっていた頃から好きでDVDまで持ってるんだから!って相棒の話じゃないっつーの。でも彼の本質は「やんちゃ少年」であって、ヒギンズは普段は渋くてカッコいいイケオジが子供じみた振る舞いする所に面白さが生まれる役だと勝手に思うんです。だから舞台を観てるうちに寺脇さんがお茶目で可愛く見えてきたけどヒギンズかと言われるとちと違うような…と複雑な気分になってしまった。
ここからラストのネタバレになるので !CAUTION! ですよ、ラストシーンの演出が従来の「スリッパはどこだい?」じゃなくて、「いや、スリッパ探してただけ」とヒギンズが言い2人が向き合って一瞬睨み合った後笑い出すというのに変わってるんですね。前に記事にした時にも書いたけど海外では既にこういう演出になってるみたい。私自身は、時代に合わせて話の筋を変えるの余り好きじゃない派なんだけど実際観たら案外すんなり受け入れられた。それは私が観たイライザは自立心旺盛かつ強そうで、ヒギンズも偏屈な分からず屋の部分が強調されていたからかも。2人の演技プランがあのラストに向かってうまく収束された結果だなと思う。もう一つの組はアプローチがまた違うらしいんでできれば見比べてみたかったな。
さて、ここからは舞台の感想とは関係ない話題です。今回舞台を観るに当たって映画の「ピグマリオン」(1938年)と「マイフェアレディ」(1964年)を見返しました。「マイフェアレディ」はバーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」が原作と言われているけど、1938年の映画のミュージカル化といった方が正確なように思います。この映画にもバーナード・ショーは脚本家として参加してて、ノーベル賞(文学賞)とアカデミー賞(脚本賞)を両方取った唯一の人らしい。前の記事でこの2つは台詞回しまで殆ど同じと書いたけど、よく見るとヒギンズの人物像が微妙に違うんですね。「ピグマリオン」で描かれていたヒギンズの社会性や常識のなさが「マイフェアレディ」だとカットされていて、偏屈で女嫌いの独身主義者という面が強調されているように思います(わざわざ女嫌いの曲を2つも作ってるし)。家政婦長のミセス・ピアースにテーブルマナーの悪さを指摘されたり、母親の家ではピアノやテーブルの上に座って怒られているシーンが元々はあったんです。おまけに社交性も皆無で母親宅でのお茶会(ミュージカルではアスコット競馬場の場面)では来客の姿を見ると逃げ出そうとして挨拶もロクにできない様を見せてます。こういう描写を見ているとヒギンズって発達障害の特徴と一致してるなと個人的には考えています。興味関心の範囲が異様に狭いけどその分専門分野(音声学)についてはとても詳しい、いい大人なら身につけているはずの常識やマナーが欠如している、イライザの心情を慮ることができず共感性を持ち合わせていない、自分が知らず知らずのうちにイライザに惹かれていることすら気付かないなどなど…そう考えると女嫌いなのも説明付くんです。そもそも人間に関心がない、中でも女は感情的で考えがコロコロ変わるから訳分からない、その結果、趣味(ここでは音声学)が一致しているか、気持ちが安定していて予想通りの反応だけする相手としか友人になれない、ピッカリングのような。だからある意味「人間なんて所詮皆同じ」と平等な思想なんですよねw そういう意味での「花売り娘も伯爵夫人も平等に扱う」発言なんだと思う。ヒギンズが自分の気持ちに気付いてないから分かりにくいけど、イライザを偏見混じりの眼差しで見なかったというのはこういう事から来ているのかなーと考えています。発達障害の概念ってバーナード・ショーがこの作品を書いた頃にはまだなかったはずだから身近にモデルがいたとしか考えられないです。
元の戯曲はイライザがヒギンズの元を去っておしまいだったというのは有名な話です。この戯曲を舞台化したらヒギンズとイライザがくっつくラストを客もスタッフも望んで、少し結末を甘くしたらバーナード・ショーは激おこになったらしいです。激おこの余りイライザとフレディがくっつく後日譚を書いて「なぜフレディとくっつくのが正しいか」という理由までくっつけたらしい。でも!私のような者がノーベル賞作家に楯突くのもおこがましいんですが!もしフレディとくっつけるなら物語の始めから伏線張っとこうよ!と言いたい。少女漫画でもたまにあるじゃないですか。元々本命キャラとくっつけるつもりだったのに、かませ犬キャラの方が人気が出たので結末変えるケース。私そういうの好きじゃないんですよ!作者の意図と反してこの作品構造的にヒギンズルートしか提示されてないんですよ。ヒギンズ確かにクソだし自分自身の感情にすら鈍感だけどイライザのありのままを評価していることには変わらんのですよ。だから何だかんだ言って多くの人はイライザがヒギンズの元に帰ってくるラストを望むのだと思う。もっとも私の場合それは「ピグマリオン」のレスリー・ハワード演じるヒギンズを見ての感想であって、「マイフェアレディ」だとフレディでもいいんじゃね?と思ってしまう。べっ、別にレックス・ハリソンよりもジェレミー・ブレットが好きとかそんなんじゃないからねっ!イケメン無罪って訳じゃないんだから!あ、でも本当にレスリー・ハワードかっこいいのでみんな「ピグマリオン」見て…だからイケメン無罪なんて浅はかな理由では、な…い…と思いたい…