前から見たかった作品。噂はかねがね聞いていて自分に刺さるような気がしてたんですよね。前回公演(2018年だったっけ?)はチケット争奪戦に敗れ今回もコロナコロナでうっかりして乗り遅れたんですが、譲って頂くご縁がありました。初めてなのでどのペアでも良かったんですが、初演のペア(田代万里生/新納慎也)が再びタッグを組むと聞いてどうせならそれがいいな(でも一番チケット取りにくかった…)新納さん好きだし、てな訳で行ってきました。
結論。めちゃめちゃ刺さった!余りに衝撃受けて帰りボーッとしながら歩いててちょっと危なかったw これ文学好きの深読みスキーのオタク女子がハマるやつだ。腐女子なら尚更。エリート家系の秀才のニーチェ被れのBLなんて「設定盛りすぎ」って編集からダメ出し食らうレベル。でも史実というのだからすごい。「事実は小説より奇なり」と言うけれど、現実の方が盛りすぎになることが往々にしてある。事前知識なしに見たので帰りにモデルとなった事件を調べたら(お陰で電車乗り過ごしそうになったw)殆どいじってなくて驚いた。観客席がほぼ100%女性という現場も初めて。宝塚ですら95%くらいなのに。私自身は腐女子というわけではなく「腐女子に媚びるのはよくないと思いまぁす!」とすら思ってたんですが、終わったら「いとエロし(ええもん見せてもらいました)」と手のひらクルーしてしまいましたw
「私(田代さん)」と「彼(新納さん)」がただのカップルじゃないんですよ。SM的な関係なんです。「私」はひたすら「彼」を崇拝し、「彼」は「私」に冷たく当たる。「彼」のあしらいぶりがまーひどくて「私」が隷属的に従ってるだけのように一見見えるんだけど、よく見ると違うんだよね。「私」が一瞬垣間見せる狂気というか狂信的な愛がチラッチラッしてて、本当にやべーのはこいつだ、本当に優位に立ってるのは「私」で冒頭からややもすると「私」が主導権握ってしまいそうな緊張感をはらんでました。
そう思わせるのは、「彼」の情緒面がとても幼稚だったことも起因するかもしれない。ニーチェに傾倒して「自分は超人だ!自分のような優れた人間は法も倫理も超越するんだ!」ってそれ本気で言ってる?最初は小屋を放火してたけど、そのうちチープなスリルに身を任せるだけでは物足りなくなって殺人を思い付く。最初に挙げたターゲットは自分の弟。理由は自分より父に愛されているから。19歳にもなってなお弟への嫉妬が生々しい。「彼」は大学を飛び級で卒業したと言うけど、専門分野は抜きん出ても情緒面は年相応だから同世代の子供と一緒に成長する機会が奪われたのが未熟さの原因かなあなんてことを考えてしまいました。一番ぞわぞわしたのは、弁護士の最終弁論を聞いて「あれはすごかった。ああいう弁護士になりたかったんだ」と無邪気に語るところ。まるで他人事で自分のしでかしたことと「ああいう弁護士」の落差がありすぎることに本人が気付いてない。「私」の「え?そうだったんだw」も併せてすごく違和感があって今でも頭から離れません。
それ考えると「私」はただ愛に盲目だっただけで「彼」が「絶対にバレない」と豪語した殺人計画がガバガバだったことも見抜いてたし放火も殺人も1人なら実行しなかったに違いない。問題はいつから「計画通り」だったのか。「私」の言う通り最初から「彼」を手のひらで転がしていたのか、それとも途中から考えを変えたのか?個人的には、最初は自分が罪を被る形で「彼」に殉ずるつもりだったけど、「彼」の裏切りを知って死ぬまで2人でいる方を選んだのかなあなんて思ってる(絞首刑か終身刑かはこの際「私」にとってはどうでもよい)。「彼」ひどいよね、「俺の話はしなかったよな」ばかり確認して自分の保身ばかり気にして「私」のことなどこれっぽちも心配していない。困った時だけ名前を呼んで醜く生に縋る。この時「私」は最終的な決断をしたのではないかしら、なんちゃって。この辺り見た人の数だけ解釈が生まれそう。ただ「SMにおいて主導権を握っているのは実はMである」というのは谷崎潤一郎の「春琴抄」やみうらじゅんの文章を読んで知っていたのでラストのどんでん返しは意外ではありませんでした(谷崎とみうらじゅんのギャップはこの際置いといてw)。
新納さんの舞台は何度か見てますが「彼」は彼の当たり役の一つだと思いました。実際「スリルミーはワシが育てた」的な発言してるしご本人の思い入れも深そう。とにかくドSめっちゃ合うね!「もうお前とは会わない」と言い放つ酷薄さと裏腹の「どうせ会うんだろ」感がいいのよ。被害者をおびき出すところの一人芝居もめっちゃゾクゾクした(めっちゃ乱用)。ドSな分、逮捕されてからのボロボロ加減がこれまたいとおかし。関西出身で関西人特有のノリの良さはあるけど都会的で洗練されてるよね、このスノッブさは誰にも出せるもんじゃないと思う。一方の田代さんも育ちの良さが溢れ出ている(音大とか美大とか貧乏な家は行けないんだよ!)。田代さんは今回お初で「いい人」の役が多いイメージだったんですが、すごい怪演ぶりで驚きでした。最初から「私」怪しかったもん、得体の知れない気持ち悪さがあって見た目は温和でも本能が「こいつ信用しちゃいけない」と告げてましたw この2人が並ぶとエリート家系という設定がしっくり来る。他の2組見てないけどビジュアル的には一番イメージ通りかなあと個人的には思いました。
史実の2人もかなりのイケメンなんですよね。ここまで恵まれると人格が未熟なまま自己愛が肥大して万能感に支配されて自分と世界の距離感を見誤ってしまったのかな。事件自体も胸糞悪いですが、金持ちだから優秀な弁護士を雇えて死刑を回避できたというのもひどい話です。彼らは最後まで贖罪意識を持たないし(実際は「私」の方は釈放後問題を抱えた子供達への支援活動をしていたらしいですが)劇中でも倫理道徳的に彼らを責める視点はありません。現実で似たような事件が起きたら犯人には嫌悪感しか湧かない。でも芸術なりエンタメなり名前は何でもいいですが、表現とはしばしば不道徳であり、倫理的には許されないことでも別の視点から見ると新たな発見ができるものである、そのことは大事にしなくてはならないと思うんです。だから表現に道徳観念を導入するのは野暮というか余りしたくないなあと個人的には考えてます。こんな蛇足を言いたくなったのは「いい表現、悪い表現」を分けたがる風潮が最近強くなってる気がして…「好き/嫌い」はあってもいいけど「いい/悪い」とイコールではないんだよということを言いたいだけでして…話がズレた気がしたので「いとエロし(エロくてとてもよかった)」で締めたいと思います!以上!